本日、とある裁判の結審が行われました。
この結審については、関係者の方々が法に基づいて長い長い議論を経て出した結論です。
何も言う事は無いです。

ただ、原告の方が仰る、「犯罪が起こった時点で皆敗者」という言葉がとても印象的でした。
犯罪が抑止され、そもそもそういった発生しない社会、被害者と加害者が生まれない社会を少しでも目指したい。
この様な主張をお持ちでしたが、まだまだ長い長い時間が掛かりそうですね。そもそも出来るのか。絶望的に難しそうです。それでもやはり目指していかなければならないのでしょうね。

それについて自分は何が出来るのか。そもそも何か出来るのか。うーん。考えていかないといけませんね。

判決文を読んで感じる事は、人の心の中身を推し量る事が、本当に難しいということ。
18歳相当の精神的成熟度、その乖離を求める事が、公平に客観的に出来ない現状の科学の限界を述べていました。(引用アリ)

判決文の中で反対意見は、もし18歳相当の成熟度が相当程度無いのであれば、それは情状として汲み取るべきだとしています。
非常に分かりやすく言えば、「(非常に幼稚な)子供のやった事に対して死刑は重すぎる」という事で、この子供かどうかという点について再審理すべきだ、という事です。


この成熟度の定量化は、非常に難しい課題です。
在する社会や文化、時代という環境によっても尺度は変わってきそうです。
そもそも成人や未成年の定義も、国地域によってバラバラですしね。

どうあれ、考えさせられる事が多い結審でした。

おわり。


-- 以下抜粋 --
*http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20120220164838.pdf
反対意見は,精神的成熟度が少なくとも18歳を相当程度下回っていることが証拠上認められるような場合は,第1次上告審判決(最高裁平成14年(あ)第730号同18年6月20日第三小法廷判決・裁判集刑事289号383頁)がいう「死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情」が存在するとみることが相当であるとし,原審はこの観点からの審理・検討が不十分であるとするものである。しかし,精神的成熟度が18歳を相当程度下回っているかどうかを判断するためには,18歳程度の精神的成熟度とは,どのような精神的能力をどの程度備えていなければならないか,どのような要件を満たすものでなければならないかを明らかにした上で,それとの乖離の程度を判定しなければならないが,人の精神的能力,作用は極めて多方面にわたり,それぞれの発達度は個人個人で偏りが避けられないものであるのに,果たして,そのような判断を可能にする客観的基準や信頼し得る調査の方法があるのであろうか。
少年法51条1項が死刑適用の可否につき定めるところは18歳未満か以上かという形式的基準であり,精神的成熟度及び可塑性の要件を求めていないことは,反対意見にもあるとおりであり,少年法のその他の規定で年齢が要件となっているものの中にも,実質的な精神的成熟度を問題にしている規定は存在しない。本件の第1次上告審判決はもちろん,いわゆる永山事件の最高裁判決(最高裁昭和56年(あ)第1505号同58年7月8日第二小法廷判決・刑集37巻6号609頁)も,精神的成熟度が18歳未満の少年と同視し得るかどうかを判別して,死刑適用の可否を判断すべきことを求めているものとは解されない。
精神的成熟度は,いわゆる犯情と一般情状とを総合して量刑判断を行う際の,一般情状に属する要素として位置付けられるべきものであり,そのような観点から量刑に関する審理・判断を行った原審に,審理不尽の違法があるとすることはできないと考える。